村瀬の井戸端会議!blog

上智を卒業した新社会人22歳の雑記ブログです。閲覧ありがとうございます!ブログを通じた出会いを大切にしていきます。

今だからオリンピックについて語ろう

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どうも!筆者の村瀬です。

 

まもなくパラリンピックの閉幕から1週間がたちますね。

テレビのニュースなどを見るとオリンピック熱は落ち着き、普段の生活に戻った感があります。小池東京都知事も今大会についてコロナ蔓延を想定していたよりも抑えられたと話し、成功ムードを演出。運営側にとってはひと段落といったところでしょうか。

 

しかし!オリンピックが”無事”に終わった今だからこそ話さなければならないことがあると思うのです。苦難の中にあった今大会を終えた今だからこそ、議論の価値があると思います。

 

今回の記事では私が今大会を通じて考えたこと、議論すべきだと感じることについて書いていきます。読んでくれた方も意見や感想をコメントしていただけたら幸いです。

 

はじめに

 今回の2020大会は世界的パンデミックが起きたことにより、史上まれにみる苦難を経ての開催となった。中止論が巻き起こる中ではあったが、私は開催したこと自体は間違いではなかったと考えている。

なぜなら、オリンピックという舞台は我々一般人が思うより選手にとっては大きな存在であり、メダル獲得のために命に危険が迫る薬物の投与でさえ受け入れる選手がいることを知っているからだ。

また日本でのラグビーがそうであったように、国際大会が及ぼすアマチュアスポーツ人口への影響は大きい。スポーツの祭典であるオリンピックの中止に関しては、スポーツという文化継承の観点から見てもできるだけ避けるべきことだと考える。

 

 2020年大会の苦難に関して、コロナ発生後の出来事が注目されがちだが私がこの記事と通じて訴えたいのはむしろ2020年以前の準備のあり方である。

 

 2020年大会の経緯についてさらっと振り返ろう。

 もともと今回の五輪招致は3.11の復興五輪を掲げて行われた。五輪後に残される「レガシー」が強調され、「お金がかからない五輪」という点が評価された。メイン会場となる国立競技場のデザイン案は混迷を極めた。総工費の膨大の指摘を受け当初のザハ案を棄却、隈研吾氏のデザインで建設がすすめられた。

しかしここでも問題は発生。工期の短さに起因する労災や「杜のスタジアム」を掲げながらの違法伐採木材の使用が明るみに出た。そのほか気温の高い東京で本当にマラソンができるのかといった議論もあった。

 

 こうしてみると開催に際して露見した後手後手の管理体制や議論の浅さの予兆を感じ取ることができる。「お金がかからない」はずの五輪はコロナ対策費用も相まって夏季大会史上最大の1兆6000万円がつぎ込まれた。さらには散々掲げてきた「レガシー」に関する議論もうやむやになろうとしている。

 

 今こそ今後の五輪がどうあるべきなのか、何を学ぶのかについて議論を深める時ではなかろうか。

 

レガシー

 2020年大会に際してオリンピック後に残すレガシーは5つの柱を持って掲げられた。

スポーツの振興街づくり文化継承経済・テクノロジーオールジャパン

である。①は文字通り五輪を通して人々がスポーツを楽しんだり健康的な運動習慣を得ることを願うもの。

②はインフラ整備や公害や災害からの再生。

③は伝統文化とクールジャパン文化の継承。これに関しては大会の閉開幕式に表れていたように思う。

④はAIやビッグデータ、水素技術の実践的利用。

⑤は災害からの復興を示す大会にするという決意だ。

 

果たしてこのうちいくつがレガシーとして残せていようか。

 

特に災害からの復興は、誘致に際して強調されたにもかかわらず疑問符が浮かぶ。

安倍元首相の福島「アンダーコントロール」発言は話題になったが、福島原発から北西の地域は特に汚染がひどくいまだに家に帰ることができていない人々も多くいる。がれき撤去も続き、汚染水や核廃棄物についてもうやむやだ。一方で帰宅困難者への支援の打ち切りが進む。

 

また、肝心の国立競技場の五輪後の利用法も宙に浮いていると聞く。年間の維持費用は約24億円かかり当初は球技場として使用される予定が、世界陸連からトラックを残す要請があり白紙化した。

 

そもそも五輪のレガシーは未来に向かって持続可能な大会であるために組織委員会が重視してきたポイントである。コンパクトな予算で運営し、ホスト国にとっても将来への足掛かりとなる大会にする。実際的なものであるべきであって、誘致のための売り文句ではないのだ。

 

②の街づくりに関しては確かに五輪を目標に建てられた建造物もあったのだろうが、

④のテクノロジーについては世界に先駆けたAI利用や社会活用が進んだようには思えない。3.11を受けて災害に強い国づくり(法整備や情報開示)が十分行われただろうか。

 

苦難の末行った2020大会の後、メダルのほかに私たちの手元に残ったのは一体何なのであろうか

 

準備の段階でより深い議論が必要だったと自戒する。国民が関心を持って政治を監視し、共に「身になる」五輪を作り上げていくべきだったのだ。

 

例えば国立競技場の一連の問題。確かに総工費については連日テレビニュースでも取り上げられたが、あるべきスタジアムの姿についての議論は尽くされなかったように思う。

もし、国民みんなで議論し、五輪後も使えるみんなのスタジアムが完成していたとしたら、コロナによって2020大会が中止になっていたとしても私たちのもとには「レガシー」が確かに残っただろう。

 

そう、そうなのだ。準備の段階で国民それぞれが考え議論していれば、もし大会自体がなくなってもこの先何十年の日本を紡ぐ、インフラ、テクノロジー、文化そして国民の団結力が存在していたはずなのだ。

 

とはいってもコロナのパンデミックは不幸すぎたという人もいるだろう。確かにそうだ。だからこそ「五輪やっぱ始まると面白かったよね~」で終わらせず、将来への糧にしなければあまりにももったいない!と思うのです。

 

コロナ

オリンピックに際してコロナ対策はもっとやれることがあったろうと思う。特にホスト国でありながらワクチン接種に後れを取ったことは「何をしてるの?」と思わざるを得ない。

アメリカやヨーロッパ諸国は2021年初頭にはワクチンの1回目接種が始まっていたのに対し日本は4月中旬になってやっとだ。

f:id:muraseidobata:20210910232515j:plain東京新聞より

ファイザーやモデルナはアメリカやヨーロッパの企業が開発したものだから優先度は下がるという理屈はわかる。だが、日本は五輪ホスト国だったのだ。日本の感染対策が遅れれば各国の選手が危険にさらされ、五輪自体も中止になりかねないのだ。

 

私が総理大臣なら五輪を見据えて接種を完了するために諸外国へ優先的にワクチンを回すように要請をかけただろう。

少なくともコロナ発症で重症化リスクの高い高齢者や基礎疾患を持つ人への接種を開幕までには完了しておくべきだった。ワクチンまでも後追いかとため息が出た。

 

 また、変異種への対策もよくなかった。7月に五輪が控えているにもかかわらず、2020年冬ごろから発生しだした変異種をまんまと国内に入れた。

どうして検疫を最大限強化するということができないのだろう。渡航はかなり制限されているのかと思ったら1月に巨人の菅野投手が普通に渡米して帰国してた。なぜ強い措置ができないのだろう。これは私の勉強の余地ありだ。

 

マスメディア

今回の五輪を見ていて最も辟易したのはテレビなどのマスメディアである。

開幕前、散々感染者数の増加を報道し、繁華街に出歩く若者をさらし者にしていたにも関わらず開会式の日。競技場前に集まり選手バスの出待ちをしている人々に嬉々としてインタビューしていた。盛り上がる民衆の代表であるかのように。

 

選手の出待ち行為はプロ野球の球場でも規制されている行為であり、本来であれば注意されるべき行動だ。前日まで新宿を歩く若者を悪者扱いしたげく、次の日には同じ口で出待ちファンに寄り添う。

確かに番組や立場が異なれば五輪に対する考え方も異なるといわれればそれまでなのだが、違和感を感じるのは私だけだろうか。

 

あくまでも私は五輪中止論者ではないし、やるならしっかり盛り上げて経済効果が高まればいいと思っていて、そここそメディアの役割だと思う。

そもそもコロナ禍の五輪は悪いことばかりではなく、観戦チケットを買った客が競技の審判目線のVRを見られるようにすれば、チケットの返金も半額程度で済んだのではないかと考えたりもする。(技術的な部分はわかりません^^;)

 

少し話がずれたがそういうコロナ時代の五輪の楽しみ方を提示するべきであって外出してきた人たちの盛り上がりを伝えるのは違うと思った。

 

このようにメディアがどうも視聴率偏重の分かりやすいニュースで国民を目くらましし、考える力を奪っているように思えてならない。

 

先述した競技場のデザイン案に関しても、インパクトの大きい総工費膨大については取り上げられたが、さてどういうスタジアムであれば後世に価値あるものになるかという観点では扱われてこなかった。

 

五輪を通じて感じたことは、誰かの考えや与えられた情報をうのみにするのではなく、自分で情報を探し自らの頭で考えることがこの現代ではますます重要になってきたということである。

 

IOC

最後に私の五輪に関する率直な意見を書いて終わろうと思う。

 

単刀直入に言うと、IOCによる五輪というイベントはなくしたらどうか。ということだ。

バッハ会長のホスト国の国民の安全を顧みない姿勢というのは甚だしく話題になった。尾身会長も怒っていましたね(笑)

 

地球温暖化が進む地球において、今後もホスト国が災害に見舞われることは想定できる。今回は疫病であったが地震や異常気象、台風、蝗害などが起こりうる。

そうしたときに運営主体がIOCであったらこれからもホスト国の国民が我慢を強いられることになる。

 

今の五輪は既得権益者にとって利益の大きいものになってしまっている。(都有地である晴海の選手村をスポンサー不動産会社に相場の10分の1の価格で払い下げたニュースには驚いた。森友学園以上だ!)

近年の大会は競技数がどんどん増えたおかげで大会費用がかさみやすく、大企業とオリンピック委員会が結びつきやすくなっている。

 

一部の利権者に金が集まり、その他国民がリスクを負う大会などあってはならないと私は思う。そんな組織が経済格差の是正をポリシーに掲げているもんだから失笑ものだ。

 

そんな現実があってもなお「五輪」という形にこだわる必要があるのか、という問いを投げかけたい。

 

おわりに

オリンピックの誘致の初心を思い出してもらうべく一連の経緯を示し、準備段階での国民全体での議論不足、コロナ対応、マスコミ、IOCへの批判を綴ってきた。

五輪開催には莫大な費用が掛かり、自国開催するなら国民全体で支えるべきイベントとなる。規模とリスクを考えると筆者はホスト国立候補に国民投票を義務化すべきだとすら思う。 

 

スポーツには大きな力があるからこそ、その準備段階での議論を怠ってはならない。マスメディアにはぜひその議論の場を提供する役割を担うことを期待する。

 

今大会は日本人の持つ事なかれ主義の賜物か、課題への対応が後手後手になってしまった。議論もしつくされなかった。

その失敗を繰り返さないためにも、今このタイミングで「楽しかった」以外の意見の交換を、周りの人としてみてほしいと思います。

 

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