「好き」と「推し」
どうも!独身貴族大学生の村瀬です。
今日ヤフーニュースを見ていたら面白い記事を読みました。
表題は『現役女子大生が語る、高校生も働ける”コンカフェ”のリアル』というもので、
近年の若者文化の構造と若い女性がコンカフェや風俗業界に導かれていく現実が
本の著者へのインタビュー形式で明らかにされています。
この記事の中でも特に私が面白いと思ったのは「推し」文化を言語化した部分。
簡単に書き出すと
こういった特徴があるのだといいます。
私自身「推し」と呼べるものは特にないので、
近年「ファン」とはまた違ったニュアンスの「推し」という表現が広く使われ始めたことは不思議だなと思っていました。
ここ数年でいえば私は女優の森七菜ちゃんが好きでSNSをフォローしたり番組をチェックしたりしていましたが、
あくまで「応援」であって世にいう「推し」と呼ばれるものではなさそうです。
何となくのイメージとして「推し」を掲げる人に対して
「付け入る隙がないな」「独占的なニュアンスを感じるな」
という印象を受けていました。
「好き」ではなく「推し」を持つ人はよく発信をする気がします。
自分の内なる感情というよりは自分とそのコンテンツとの距離感も1つのアイデンティティなのかもしれません。
自分なりの立ち位置を堅持するための情報発信なのかもしれませんが、そこまでの熱量がない受け手としてはたじろいでしまうことがあります。
そしてお金を使う。
使ったお金の量も1つのステータスで、インスタのストーリーで長く伸びたレシートの写真を載せているのを見ます。
そういう意味ではこれまで私が感じていた独占的なイメージは、
対象物への独占ではなく、個人のアイデンティティを守ろうとする気持ちからくるものだったのかなと思えてきました。
つまりコンテンツを追いかけ、お金をかけ、周りにアピールする行動は
「〇〇が好き」という自分のアイデンティティを守るためでもあったのだろうということです。
特にコロナで心に空白が空きやすい環境ではありますから、
そこに入り込んだのが近年の推し文化であったのだろうと思います。
「グッズは欠かさず買う専門」「アニメのこのキャラクター専門」「アイドルのSNS発信専門」など各々の推し活プレイヤーは自分だけの立ち位置を見つけコンテンツを守っていく。
何とも切実さを感じてしまいます。
記事の中で「推し」では基本的にきれいな部分しか見ないと書かれています。
「好き」や「恋愛」とは違って不都合な事実が出てきたときには「推し降りるわ」といって離れていく現象があるんだとか。
アイドルの結婚とかが分かりやすい例ですかね。
自分のアイデンティティの一部である「推し活」においては自分のブランディングに則さない事実が出てきたときには容赦なく離れていくという傾向が強いのだろうと思いました。
私個人の意見としては「推し活」はどんどんやっていいと思うのだけれど、無理をして疲弊してしまわないかが心配です。
ただでさえSNS社会・変化の大きい社会はストレスが大きいです。
「コンテンツを好き」という感情自体に満足できるならいいけれども、
そこに自分のアイデンティティをかぶせて役割を抱えてしまうことは何だか危なっかしく思えてしまうのです。
現に私が「推し」を持っていないのもその種の怖さがあるからだと感じます。
私としては「自分推し」を提唱したい。
自分がやりたいことや興味を持つことを全肯定してやってみるような、
そこを自分のアイデンティティとして持ってみるというものです。
周りの友達を見ると、推しには熱心だけれど自分のことになると「どうせ無理・・・」「これまで通りでいいよ・・・」と弱気になるので何ともやり切れません。
現代人の「推し活」への熱量を見ると、その矢印を自分に向けたとたんとんでもないバイタリティになるんじゃないかと思えてきます。
なので私は「推し活」の次のトレンドが「自分推し」になったらいいなとひそかに願っております。
参照した記事は下に貼っておきますのでこちらもぜひお読みください。↓
では。
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