村瀬の井戸端会議!blog

上智を卒業した新社会人22歳の雑記ブログです。閲覧ありがとうございます!ブログを通じた出会いを大切にしていきます。

大学4年間で「死にてぇ」というようになった友人たちへ

 

どうも、筆者の村瀬です。

 

私は明日に卒業式を控える大学4年生で、いよいよ学生生活を終えようとしています。

私の世代は大学3年からコロナ自粛生活で、就活やゼミはオンラインになってしまいました。

 

そんな中でも尊敬できる友人を複数見つけることができたのはこの4年間の最大の収穫だったと思っています。

自分の興味関心や、自分が面白いと思うことに全力で向き合おうとしている人は男女問わずかっこいいし、自分もそうなりたいと刺激を受けます。

 

一方、今回書こうと思っているのはこれとは逆(?)の人種で

大学の4年間で「どうしたの?」というくらい「老いて」しまった友人たちについてです。

高校以前や大学1年生のころから知っていてその頃は楽しく過ごしていたようなのに、今では将来を過度に悲観したり、人が何かに挑戦しようとすること自体に皮肉的になったりと

良い年の取り方ではないのではと思わせられることが特に最近多いです。

 

長渕剛の「友達がいなくなっちゃった」が脳内でかかる。

自分の生き方を押し付けるわけではないけども、

少なからず存在するそうした人たちへのエールのつもりで

今回は書いていこうと思います。

 

まず、悲しいですが「死にてぇ」という言葉をよく聞くようになりました。

実は私も高校時代、母親にこの言葉を言って泣かせてしまったことがあるのですが(それからは口が裂けても言えなくなった)

それくらい大きな意味を持つ言葉にもかかわらず、SNS・対面問わず複数の友人から複数回聞きました。

 

私は特段社会福祉や教育方面に興味が向いているわけではありませんが、

客観的に見て彼らが物質的に豊かでいなかったり不幸な境遇にあるとは思えません。

不自由なく暮らし学費も親が払ってくれて、何なら私よりも持っている手札は強いのになと思うことがほとんどです。

 

それなのにどうして「死にたい」という言葉が出てくるのか、わかりません。

大好きだった親友を亡くした経験を持つ私からしてみれば、

「死にたいなら死ねよ」「あいつの代わりに死んでくれたらよかったじゃないか」

と正直思ってしまいます。

 

まあしかし「死にたい」というのは結果としてそういう表現になっているだけで、

本当に生きていたくないというよりも自分の悩みや抱えているものをうまく言語化できないがゆえに

そうした安直な言葉でくくられているのかなとも考えます。

 

「この貧乏生活から脱したい」「コミュニケーション能力を上げたい」「もっとモテたい」などと言ってくれれば私の精神衛生には良いんですが、、

こんなところにも言語化能力の重要性があるのだなぁと。

 

私の言う「老い」について説明しておくと、

「何が食べたい」「どこへ行きたい」といった欲求がしぼんで

新しいことや自分の関心ごとへのアンテナがへし折れてしまっている状態のことだと思います。

高齢でも老けてないなと感じさせる人はここの感性がまだ生きているのだと思うし

一度老け始めた人でもいつでも若返ることはできる!という期待がこの定義には含まれています。

 

私が思うに20歳そこそこで「老い」が始まる理由は、過去の失敗と将来への不安にとらわれすぎているからだと思っています。

 

私は上智大学に通っていて社会一般から言えば成功者に見られることもあるかもしれませんが、その評価は的外れだと思います。

上智でも(私が落ちた)一橋でも、Fランでも高卒でも、学歴なんてものはただの結果であり、幸せかどうかを決定づけるのはその中身だと思うからです。

 

私が見つけた「老い大学生」はここの価値観がイマイチ合わず、未だに大学が第1志望じゃなかったことや偏差値の上下を気にしていたりします。

そりゃあ幸せになれんよと思います。

自分を否定することはその過程で出会ったすべての人を否定することなんだということに早く気付いてほしいです。

 

また、昨今のSNS社会は間違いなく若者の心をむしばんでいるなということも同時に感じます。

キラキラした他人のいい部分ばかりを見せられて、自分がそれほどでもなかったらそりゃあ病みます。

嫉妬というのは自分を奮い立たせる爆薬にも自分を破滅させる爆薬にもなりうると思いますが、現代社会では後者の効用が大きすぎるようです。

そのためには自分で情報の量を統制するしかないのですが

なかなか自分の前を流れてくる情報を遮断しようという決断はできないものです。

 

そして「キラキラ他人ーくすぶり自分」の構図が刷り込まれた彼らは

「こんな自分が将来うまくいくわけがない」

という根拠のない不安を抱えて「老い」が進行するのです。

 

自分の幸せに対する鈍感さと羨ましがり癖のたまものが

私が感じるこの「老い」を生み出していると考えます。

特にInstagramTikTokの情報を取り込みすぎている人を見ると、

エサを与えられすぎて飛べなくなった公園のハトを思わせます。

 

もしあなたがここまで述べてきた人物像に当てはまっているなら「自分のためのSNS利用」「周りに感謝すること」をオススメします。

 

SNSに嫌気がさしてブログに逃げてきた私から言わせれば、SNSは草食獣の皮をかぶった肉食獣です。

一見自分に合った情報を謙虚に差し出してくれているようで、

実際それは高度な戦略で、油断すると簡単に飲まれてしまいます。

それを防ぐにはサバンナのライオンと同じで適度な距離を保つことが必要です。

 

またおそらく「周りへの感謝」も足りていないんだと思います。

完全完璧に一人孤独に生きている人なんていないと思います。

少なからず友人がいたり家族がいるはずです。

そうした人たちがいかに自分を支えてくれているかを理解していないと、自分の人生は受け身のどうでもいいものなんだと勘違いしがちです。

実際私が高校時代親を泣かせたときはこの考え方が頭になかったのだと思います。

 

私は親友を亡くした時お葬式に行きましたが、あの光景を見たら「親より先に死んでもいい」なんて思えなくなります。

自分があんまり周りに愛されてないなと感じているとしても、実際に自分が死んだらそういうことになります。

 

なので自分がうまくいってないのは周りの環境のせいでもなく過去のしくじりのせいでもなく、

「自分のSNSの使い方」と「周りがいかに自分を生かしているかも考えない想像力の欠如」が原因なので

「死にてぇ」などという下らんことをもう言わないでください。

 

自分のことを好きでいられないんだとしたらとりあえず自分の周りの友人なり家族なりにちゃんと向き合ってみてください。

量でも周りからの評価でもなく、自分が感じる質がすべてです。

そうしたらすぐには無理でも、「まあ自分の人生もまあまあ運がいいじゃないか」と思えるようになると思います。

 

 

と、人生のターニングポイントで感じたことについて書いてきました。

ぜひメッセージが届くべき人に届いてほしいなという想いです。

あまり人に言っていませんが、何回か自分の魂が生まれ変わっているとしたら今回が最高の周だなと感じながら生きています。

素敵な人と出会えてきたし、この体を操縦しているのが楽しくて仕方ないです。

今はなんだか元気を失っている同級生たちと酒を飲みながら、過去の話ではなく未来の話ができたらなと思います。

 

では。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。☆や読者になるをぜひお願いいたします<(_ _)>